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日本の国家的「がん治療」研究、世界の潮流と逆行…成果は期待薄、医師主導の限界

  • 2017年 08月12日 06時33分
  • 提供元:Business Journal
「Thinkstock」より

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「Thinkstock」より

 ゲノム研究に基づく、個別化医療の発展は凄まじい。6月末、厚生労働省はがんに関する複数の遺伝子を一括で調べる「パネル検査」(パネルシークエンス)について、2018年度中に公的保険適用を目指す方針を固めた(「週刊ダイヤモンド」<ダイヤモンド社/7月15日号>より)。この検査が普及すれば、多くのがん患者が正確に診断され、適切な治療を受けるようになる。副作用を減らし、より高い効果が期待できるようになるだろう。


 今後、がん治療における抗がん剤が果たす役割はますます大きくなる。ゲノム研究の発展と同様、抗がん剤開発の進歩も目覚ましい。従来型の抗がん剤は腫瘍も正常組織も区別せずに攻撃していたのに対し、近年開発される抗がん剤の多くは、腫瘍細胞に発現される特定の分子を標的として攻撃する。このため、副作用は軽く、より多くの効果が期待できる。


 その嚆矢は、2001年5月に米国で承認された慢性骨髄性白血病の治療薬であるイマチニブだ。日本でも01年11月にスピード承認され、患者の運命を変えた。この薬が登場するまでは、骨髄移植以外に完治する方法がなく、平均の生存期間は約5年だったが、イマチニブを服用すれば、ほとんどの患者が10年以上の長期にわたって生存できるようになった。この薬は飲み薬で、「飲み続けている限り、病気はコントロールできる時代がきた」という血液内科の専門家もいる。


 その後、イマチニブほど劇的ではないにせよ、他のがんに対しても、このような分子標的治療薬が開発された。最近は免疫細胞に対する分子標的治療薬であるオプジーボも登場し、がん治療のパラダイムが変わろうとしている。


 今後、このような方向でがん医療が進むのは間違いない。その場合の問題は、治療を受ける前に腫瘍細胞の遺伝子や発現しているたんぱく質を評価しなければならなくなることだ。どうすれば、安価で迅速にできるか、世界がしのぎを削っているが、実はすでに結論は出ている。それは冒頭にご紹介したパネルシークエンスではない。全ゲノム、あるいは全エクソンシークエンスだ。本稿では、両者について説明したい。


●「オールジャパン」


 パネルシークエンスでは、あらかじめ100程度の遺伝子を選択し、その変異だけを解析する。この方法は、国立がん研究センター(国がん)と東京大学がタッグを組んで推進している。


 国がんは厚労省管轄で、日本のがん医療対策の中核だ。東大は文科省管轄の最大の研究機関であり、「オールジャパン」で研究開発を進めているといっていい。国がんは「SCRUM-Japan」なるプロジェクトを立ち上げ、総額20億円の予算を計上した。「がんの患者さんの病変から採取した組織の遺伝子異常を調べ、それぞれの遺伝子異常に合った治療薬や診断薬の開発を目指す日本初の産学連携全国がんゲノムスクーリングプロジェクト」と説明する。


 厚労省も支援し、2017年から始まる「第3期がん対策推進基本計画案」にも、がんゲノム医療の推進を盛り込んだ。実行部隊の中心は、国がんの研究所長で東大大学院医学系研究科教授(細胞情報分野)も務める医師の間野博行氏だ。


 そして、そのパートナーが、医療機器メーカーのシスメックスである。同社は神戸に本社を置く関西を代表する企業だ。社長を務める家次恒氏は、1973年に京都大学を卒業後、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)に入行した。東亞医用電子(現シスメック)のトップだった義父の死を受け、86年に同社に入社。96年に社長に昇格した。その後、190カ国以上と取引するグローバル企業に成長させた。いまや家次氏は神戸商工会議所の会頭も務める名士で、シスメックスの社外取締役には神戸の理研多細胞システム形成研究センターの高橋政代博士も名を連ねる。


 シスメックスは15年11月に国がんにラボを開設している。今年2月には、肺がんや肉腫を対象にターゲット遺伝子パネルの開発を目的とした共同研究契約を東京大学と締結した。この契約の東大側の窓口が間野教授だった。二人三脚だ。


●全ゲノムシークエンス


 ただ、私はこのやり方ではうまくいかないだろうと思う。パネルシークエンスは、一人当たりのコストは4万円程度と比較的安価だが(市販サービスは数十万円)、「半分以上の関連遺伝子を見落としてしまう」(ゲノム研究者)からだ。


 すべての遺伝子を解析できる全ゲノムシークエンスや全エクソンシークエンスと、特定の遺伝子だけを解析するパネルシークエンスのポテンシャルの差は明らかだ。
 
 ゲノムシークエンスの技術は進歩し、費用は急速に低下している。現在、全ゲノムシークエンスの費用は約12万円だが、米国イルミナ社の最新の次世代シークエンサーを用いれば、半額以下になるといわれている。小児ゲノム研究の世界的な権威であるミズーリ大学のステファン・キングモア博士は、「パネルシークエンスは20年までには役に立たなくなる」という。


 また、7月12日付日本経済新聞朝刊に掲載された『ゲノム医療の米NPO 難病診断、日本と協力 責任者が意欲』という記事のなかで、ハドソンアルファ・バイオテクノロジー研究所のハワード・ジェイコブ最高ゲノム医療責任者は、「全ゲノムの解読データを使う方向に向かう」と明言し、日本がパネルシークエンスを推進していることに対し、「この方法は既知の変異しか調べられない」と批判している。


 ジェイコブ氏は元はウィスコンシン医科大学の研究者で、09年にニコラス・ヴォルカー君(当時4歳)の原因不明の重症の腸炎を、全エクソン解析を行い、XIAP遺伝子の変異によるものと突き止めた人物だ。ニコラス君は、臍帯血移植を受け寛解した。全エクソン解析が救命した世界初の症例として注目を集めた。「ミルウォーキー・ジャーナル・センチネル」の取材班は10年12月にこのニュースを報じ、翌年にピューリッツァー賞を受賞した。


 ジェイコブ氏の下で全エクソンシークエンスの結果、実際に発見した約5000の変異から半年をかけてXIAP遺伝子の変異が原因であると突き止めたのは、リズ・ワーシー氏だ。同氏は今年3月に東大医科学研究所を訪問し、講演している。その講演に参加した井元清哉・東大医科研教授は「実際に全ゲノムシークエンスもパネルシークエンスもやっている彼らが、前者を推奨するのは説得力がありました」という。


●大人の事情


 世界の趨勢は全ゲノムシークエンスなのに、なぜ日本はパネルシークエンスに力をいれるのだろう。私は“大人の事情”が関与しているのではないかと考えている。


 一つは情報工学者の「偏在」だ。いまや世界のゲノム研究を推し進めるのは、医師ではなく情報工学者である。ところが、厚労省でこの事業を遂行する国がんは情報工学者の層が薄い。加藤護氏のような情報工学の専門家もいるが、人数は少なく、管理職の医師の下に組み込まれている。医師が仕切る国がんでは肩身が狭いといっていいだろう。
 
 日本のゲノム研究の中心は、理化学研究所と東大医科学研究所のチームだ。現在のリーダーは情報工学者である宮野悟・東大医科研ヒトゲノム解析センター長だ。昨年、従来の治療が効かない白血病患者の全エクソンを解読し、IBMの人工知能ワトソンを用いて、患者に最適な治療法を提案した。この患者は治療に劇的に反応した。このことは「人工知能が救命した最初の患者」として広く報じられた。このプロジェクトをリードしたのが宮野教授だ。


 現在、日本の医学界でもっとも生産性が高いのは、小川誠司・京都大学教授(腫瘍生物学)だろう。13年4月に京大教授に就任して以降、最終著者として、『ネイチャー』1報、『サイエンス』2報、『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディスン』1報を発表している。


小川教授を飛躍させたのは、宮野教授とのコラボレーションだ。小川教授は東大在籍時に共同研究を持ちかけた。小川教授は腫瘍やゲノムについて、深い洞察力を有している。彼のアイデアを、宮野教授が分析し論文として発表した。それが前述の小川教授の論文だ。


 ゲノム医学を進める上で、医師と情報工学者の連携は欠かせない。今後、情報工学者の重要性はますます高まるだろう。土屋了介・神奈川県立病院機構理事長が、宮野教授を抜擢し、神奈川県立がんセンターの総長に任命した(東大教授と兼任中)ことなど、その象徴だ。情報工学者ががんセンターのトップに就くなど、以前なら考えられない。


 ところが、国がんは伝統的に医師が仕切る組織で、情報工学者の層は薄い。医師を中心とした国がんの研究チームが普通にやっていては、宮野教授たちに太刀打ちできない。うがった見方をすれば、彼らとの差別化のため、パネルシークエンスという方法を採用したとの解釈も可能だ。


 パネルシークエンスは、医師にとっても都合が良さそうだ。なぜなら、パネルシークエンスでは「臨床的に意味がある特定の遺伝子」を選択しなければならないからで、これは医師の専権事項だからだ。パネルシークエンスを前面に押し出すことで、情報工学者たちより優位な地位に立つことができる。


 また、パネルシークエンスを選択することは、シスメックスなどの日本企業にとっても都合がいい。全ゲノムや全エクソンのシークエンスでは、先行するイルミナ社などの海外企業に太刀打ちできない。しかしながら、特定の遺伝子に限定した日本人向けのパネルシークエンスでは、彼らとの差別化が可能になるし、海外企業への「参入障壁」として機能する。


 日本では年間に86万人ががんと診断される。その半数が治療前にパネルシークエンスの検査を受ければ、1000億円を超える新しい市場ができ上がる。シスメックスは、そのデファクトスタンダードを獲得しようとしているのかもしれない。ビジネスとして着眼点は素晴らしい。


 ただ、こんな内向きの思考でいいのだろうか。東大・国がん・厚労省が一致団結し、日本版ゲノム医療の推進に邁進している。中核にいるのは相変わらず医師だ。ゲノム医療は専門分化しているのに、情報工学者や医療倫理、さらに患者の顔が見えない。こんなことを続ければ、日本のゲノム医療はガラパゴス化し、国際競争力を失ってしまうだろう。安倍政権が打ち出す成長戦略とは真逆の結果となる。


 密室で「パネルシークエンス推進」と決めるのではなく、日本社会はもちろん、世界に開かれた議論を積み重ね、研究者たちには切磋琢磨してもらいたいものだ。
(文=上昌広/特定非営利活動法人・医療ガバナンス研究所理事長)



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