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<コラム>中国・大連での「ありえへん!」な体験、外国人禁止の場所に踏み入る

  • 2018年 02月02日 15時40分
  • 提供元:Record China
北京に住む中国人女性の実家である大連に滞在して2日目、お母さんが私を旅順に連れて行ってくれることになった。しかし、この旅順という場所は当時、外国人の立ち入りを禁じられていた。写真は大連。

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北京に住む中国人女性の実家である大連に滞在して2日目、お母さんが私を旅順に連れて行ってくれることになった。しかし、この旅順という場所は当時、外国人の立ち入りを禁じられていた。写真は大連。

北京に住む中国人女性(以下、北京の姉さん)の実家である大連に滞在して2日目、(北京の姉さんの)お母さんが私を旅順に連れていってくれることになった。しかし、この旅順という場所は当時、外国人の立ち入りが禁じられていた。理由は軍事的なものがここにあるということのようだった。



自宅を出発し、バスに乗る間にお母さんが私に「いいかい、これから行くところは本当は外国人は行ってはいけないところなんだけど、あそこの公園から見る旅順の町並みが綺麗だから見せてあげたくて行くことにしたのよ。だから、絶対に日本語は話してはいけないよ。まあ、私と一緒にいて中国語を話していれば大丈夫!中国語を話していれば誰も日本人だと気付かないし」と言った。



お母さんはそう言っていたが、私は内心「もし、バレたらどうしよ?」と心配になっていた。が、そんな私の心配をよそにお母さんはとても嬉しそうだった。



旅順に到着し、高台の公園に行った。そしてその高台から旅順の街が見えた。本当だ!お母さんの言った通り綺麗な街並みだ。この旅順が後に外国人にも開放されて、中国が今のようになるなどとは私も全くと言って良いほど想像をしていなかった。



旅順から帰ったその夜、私はお父さんとお母さんと色々な話をした。当時の日本では今のように中国に対しての情報もなかったのと同時に、中国でも日本や日本人に対する認識や正しい情報はなかったように記憶しているが、現地で日本人と接していたりしている中国人は日本人に対しての印象は悪くなかったと思う。



こうした状況の中で、北京の姉さんの両親はまさに私たち日本人が抱いていた、イメージしていた中国人そのものだった。初老の夫婦はいつも穏やかで、怒るということを知らないのかと思うほど。お母さんはユーモアやジョークも飛ばすモダンな人だった。いつも笑いや笑顔が絶えない明るい家庭だった。実は、生まれて初めて行った北京の街並みや中国の人たちの様子に対して、ちょっと暗いかな?というイメージがあったので、大連のお父さんお母さんも気難しそうな人なのかな?などと要らぬ想像をしてしまっていたが杞憂(きゆう)に終わった。



そうこうしているうちに夕飯の時間になった。しばらくすると長男である北京の姉さんの弟さん一家と、1番上のお姉さんがやってきた。この家の子ども3人とも本当に顔立ちが似ているが、性格はそれぞれに個性があり、兄弟姉妹のいない私にはとても新鮮だった。



1番上のお姉さん、いわゆる日本でも言われている昔の長女らしいという言葉が相応しかった。そして兄弟姉妹の第3子、長男である北京の姉さんの弟さんは、子どもの中で唯一の男なので多少2人の姉さんたちに圧倒されていたのかなとも思っていたが、とても行動的な人だった。この後の私の残りの大連滞在を陰から支えてくれていたのがこの弟さんだった。車を手配し、どこに行くか、夕飯はどうするか、などの全てを計画・実行してくれた。



当時の中国では自家用車を持っている人はほとんどいなかった。中国の経済力がまだまだだったので、当然庶民の暮らしも今のようではなかった。そんな状況の中、弟さんは車をどこからか手配してくれていた。



およそ30年前の大連はビルというのは本当にわずかで、北京同様かそれ以下だが、タクシーの量は皆無に近く、人々の足は自転車かバスだった。ただ、大連の街並みは坂が多く、北京のような自転車の数ではなかった。30年前の北京は、あの大きな通りを自転車に乗って通勤する人の姿が日本でも流れていたが、大連の自転車の数は北京よりもこぢんまりしていた。



当時から大連には日本企業がごくわずかだがあった。私が弟さんに連れられて行った現在の大連の開発区などは、まだ企業の建物が数件あっただけで何もなく、唯一目立つ建物といえば西遊記館という建物くらい。あとは空き地のような状態だった。この時から数十年後、私はまた大連に行く機会が数回あったが、開発区に行くたびに30年前の西遊記館があっただけの光景が蘇ってきていた。



現在の開発区は電車も通り、企業も多数混在し、30年前には想像もしなかった光景が広がっていた。当時の光景を言葉で例えるなら、寒々しいと言ったら良いかもしれない。が、私は寒々しい光景とは反対に北京の姉さんの家族からとても温かいおもてなしを受けていたので、寒々しい空気は当時は全くもって感じられなかった。この家の長女も長男も自分の生活で一杯だったはずなのだが、日本から来た私を心配し、ちょくちょく顔を出してくれて一緒に食事もした。そして、それぞれに子どもがいて、当時は5歳前後の子どもだったが、その子どもたちも大人になり、今では皆結婚して家庭を持ち、子どもの親になっている子たちもいる。この北京の姉さんの弟さん、お姉さん、それにそれぞれの子どもたちも北京の姉さん同様にあの当時から現在までも私はずっと交流をしてくることができた。



いわゆる家族ぐるみの付き合いとなっていた。私に子どもが生まれて、大連に子どもを連れて行った時も私の子どもをとても可愛がってくれ、私の子どもが1人で北京の姉さんの家に1週間ホームステイした時も、当時弟さんは北京で暮らしていたので、昔と変わらず時々顔を出してくれて、私の子どもと覚えていた日本語で会話をしていたそう。そして、弟さんの奥さんからもかわいがってもらい、日本に帰国したら弟さんの奥さんがくれたお土産をたくさん持って帰ってきた。



1番上のお姉さんの子どもも数年前に結婚し、今では一児の母となりたくましくなったが、優しい性格は今も全く変わっていない。



こんな温かい家族のもてなしを私は30年前から受けていた。北京の姉さんの両親を見ていて思った。「あー、こういう両親から育てられた子どもたちなのだな!」と納得した。この家族の姿は当時日本でイメージしていた中国人そのものだと思った。大連滞在も順調に進み、この後も私は驚きの連続だった。日本で今風に言う、「ありえへん!」な事を目にして驚いてばかりいたのだ。



■筆者プロフィール:茶妹小丸子

1967年生まれ。千葉県出身。中国浙江省杭州大学(現浙江大学)漢語進修コースに1年留学。広西チワン族自治区外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。


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