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<コラム>中国で何かをする時に必要な2つの「ネ」って?

  • 2018年 02月02日 17時00分
  • 提供元:Record China
中国では物事をする時には2つの“ネ”が必要だ。それは“カネ”と“コネ”だ。この2つの条件を満たしてこそ、中国では物事が円滑に進むのだ。写真は大連。

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中国では物事をする時には2つの“ネ”が必要だ。それは“カネ”と“コネ”だ。この2つの条件を満たしてこそ、中国では物事が円滑に進むのだ。写真は大連。

私は当時、大連の事はあまり知らずに行ってしまっていた。情報もあまりなく、唯一の情報源は旅行案内書籍の「地球の歩き方」だった。その「地球の歩き方」を見ていたら、大連市内にキルト製品の工場があり、見学をさせてもらえると書いてあった。それを私は(北京の姉さんの)お母さんに話し、場所と行き方を聞こうとしたら、お母さんが「この本をちょっと見せてごらん。電話番号は書いてあるの?」と言ったので書いてあることを伝えると、「どれどれ、ちょっと待ってて」と言い別の部屋に行った。しばらくして、「あー、あの工場の人と連絡ついたから、一緒に行きましょう!」。



「えーーーーーー?一体どういうことーーーー?」。後で聞いたら、お母さんは知り合いをたどっていき、私が行きたかった工場の担当者を探し当てて連絡をつけてくれていた。これも後に知ったのだが、中国では物事をする時には2つの“ネ”が必要だ。それは“カネ”と“コネ”だ。この2つの条件を満たしてこそ、中国では物事が円滑に進むのだ。日本でもコネはあるにはあるが、中国のように堂々とは使わない。コネを使うことは日本では後ろめたさが伴うが、中国では違う。コネがないと直接あたってもまず相手にされない。誰々の紹介とか、関係者が一緒に行けば物事が速く進む。お母さんもまさにこのコネを最大限に使ったのだ。



持ちつ持たれつ、付き合いの長い親しい関係なら、頼まれたら金銭が発生しなくても尽力する。私のキルト工場見学が一体どのルートを使ってスムーズに工場までたどりついたのか。私は知るよしもなかった。



私はこの工場でベッドのカバーにもなる大きなものを2つ買った。当時でいくらしたのかまるで記憶にないが、少なくとも現在はとても当時買った価格では買うことができないのは確か。この時に買ったカバーは今も大切に使っている。このキルトカバーは今日までに数回引っ越しをして、(後に上海で暮らすことになるのだが)上海にも持っていき、日本に帰国してから一度引っ越しをした時も常に一緒だった。大連―日本―上海―日本と中国と日本を2往復してきた思い出の品である。



大連のお母さんに、あのときのキルトのカバーをまだ使っていると話したらきっと驚くに違いない。



大連の滞在も中盤にさしかかり、たまには自分1人で大連の市内を探索しようと思った。いつもいつも私に付き合っていてはお母さんも疲れてしまうと思い私は「1人で出かけてくる」と言ってぶらぶらしに行った。



当時の大連は北京同様かそれ以下だったのかもしれないが、店も今程にはなく、スーパーマーケットはもちろんのこと、食材は昔の日本同様に専門店で買うか、外のマーケットで買うしかなかった。外のマーケットには冷蔵庫なんてないので食材の鮮度は時間が経つほどに落ちて行く。そのため、営業時間が決まっていた。品数は少ないが、当時から中国人の食に関する執念が凄いのか、時間になると沢山の人が買いに来ていて賑やかだった。



大連は海があるので海鮮が豊富だった。特に蝦蛄(しゃこ)などはもう日本では考えられないくらい安かったはずだ。そして、この他に特徴的なのが、中国の北の地域の店には扉の手前には寒さよけの対策がしてあった。扉が二重になっているとでも言ったら良いのだろうか?店に直接寒い風が入らないような構造になっている。



当時の大連も首都の北京と同様に店は早くに閉店になるので、開いている時間に人がたくさん集まり、買い物をしていた。



私が1人で市内をぶらつき、買い物をする時に中国語で会話をしていても誰一人私が日本人だとは気づかなかったようだった。現地の人はまさか日本人が1人で買い物をしているなどとは思ってもみなかったと思う。帰ってお母さんに話したら笑っていた。



大連の滞在もあとわずかになり、私が大連を離れる前日か前々日も例によって北京の姉さんの弟さんや1番上のお姉さんがやって来て、女だけで一緒に食事を作ったりした。皆で作って、皆で話しながら食べる食事は格別だった。食事中も食事が終わってからも内容は覚えてはいないが色々な話をした。



北京の姉さんの家族は一様に日本人の私を普通の家族のように接してくれた。北京で姉さんの自宅で一度会っただけのお母さんとこうして再会し、大連の自宅に私を泊めてくれ、このときから今日に至るまでずっと親子のように接してくれようなどとは想像したことがなかった。



私は大連を離れる前にお母さんとお父さんにお願いしたいことがあり、話した。それは2人をこれから私の中国の両親として思いたいので、お父さん、お母さんと呼ばせてほしいと。そうしたら2人は「もちろんだよ」と即答してくれた。この後から私は2人を大連の父母として接することになった。



あの日から私は大連滞在の初日にお母さんが近所の知り合いに冗談で言った「4番目の子ども」になった。この大連の両親は2年前にダイヤモンド婚(結婚60周年)の記念パーティーを大連で開き、私も呼ばれて行った。そして、両親は現在90歳近い歳になっている。認知症もなく、歳相応に暮らしていたが、家の事をやるにはとてもしんどくなってきているので、現在2人はケア付きの老人ホームに入っているそう。両親が家族と話し合い決めたそうだ。大連の両親にもこの3年程会っていないので、来年は大連に会いに行こうと思っている。私には日本と中国とそれぞれに両親がいる。人生の奇跡であり、素晴らしい縁である。



■筆者プロフィール:茶妹小丸子

1967年生まれ。千葉県出身。中国浙江省杭州大学(現浙江大学)漢語進修コースに1年留学。広西チワン族自治区外貿公司駐日本代表事務所に5年の勤務、上海に4年間駐在した経験を持つ。バリバリのキャリアウーマンでもない、半分パートタイムで半分専業主婦が30年間自分の目で見て聞いた事を日本の皆さんに紹介できたら!と思っている。


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