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“昭和最後の7日間”に生まれた内村航平、“平成最初の24日間”に生まれた多部未華子

  • 2019年 03月15日 22時00分
  • 提供元:Business Journal
内村航平公式サイトより

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内村航平公式サイトより

 あらゆる事象に“平成最後”が冠せられたり、新元号の発表方法に関する報道があったりと、約30年ぶりの改元に対する関心が高まっている。平成は本年(平成31年)の4月30日をもって終わり、その前後は空前の10連休になるという。


 ところで、その約30年前――昭和から平成への改元の直前・直後の日本には、どんな風景が広がっていたのだろう?


 その前に整理しておくと、昭和は1989年(昭和64年)の1月7日に終わり、平成は同年の翌1月8日に始まっている。つまり、“昭和64年(の1月)”はわずか7日間、そして“平成元年の1月”は24日間しかなかったわけだ。


 バブル崩壊のきっかけとなった、当時の大蔵省による総量規制の開始は翌平成2(1990)年の3月のこと。つまりこの時期は、まさにバブル絶頂期である。そんな折りに“イレギュラーな暦”を経験することとなったこの1989年の最初の1カ月を、芸能、スポーツ、娯楽などの分野を中心に振り返ってみたい。それは、平成31年の視点から眺めてみると、実に興味深い事象の宝庫なのだ。


 第1回で書いた通り、いつもとは何かが違う不思議な正月三が日が終わり、人々が日常の暮らしに戻りかけていた1月7日土曜日の午前7時55分に、昭和天皇の崩御が伝えられた。そして、新元号が発表されるのは、同日の14時36分のことだ。こうして、激動の昭和は終わり、平成が始まったのである。


 昭和64年ならびに平成元年の1月を検証するシリーズの第2回である本稿では、元号が変わる直前、そして改元後の数日間を取り上げたい。


●レンタルビデオ店にハンパない大行列ができていた


 この時代、地上波のテレビ以外で動画コンテンツを観る手段として、レンタルビデオ(主にVHS)が空前の人気を呼んでいた。映画やテレビ番組、AVなどの動画作品を、自宅で好きなときに観られるレンタルビデオの登場は、娯楽シーンの大革命であり、普及から数年を経て、生活に欠かせないものとなりつつあった。


 まだ、TSUTAYAもGEOも全国展開されていない代わりに、街なかに、商店街に、郊外の街道沿いに、個人経営のレンタルビデオ店が多数存在していた。


 特に昭和最後の年末年始は、もともとブームであったことに加え、自粛ムードによりテレビ番組の内容が地味になったことから、人々は一斉にレンタルビデオに娯楽を求めた。


 とりわけ1月7〜8日は、各テレビ局が一斉に通常放送を休止したこともあり、1本のビデオを借りるのに何十分もレンタルビデオ店の列に並ばなければならないという現象が起きたのだった。


 平成元年は「スカパー!」の前身「パーフェクTV!」の誕生前。YouTube、ニコニコ動画、アマゾンプライムビデオ、Netflixの登場は遠い遠い未来の話である。


●“昭和64年生まれ”のビッグネームたち
 
 昭和64年の1月4〜6日には、これといった大きなニュースはなかった。しかし、そんな昭和最後の数日間に生まれた著名人も存在する。ボクシングの元WBA世界フライ級王者・元IBF世界スーパーフライ級王者の亀田大毅である。近年、テレビ番組で「ボクシングが大嫌いだった」と告白した亀田は、“昭和最後に生まれた著名人”だともいえる。


 なお、“昭和64年生まれ”というレアなプロフィールを持つ人としては、ほかにも意外な大物がいる。


 北京、ロンドン、リオデジャネイロと3大会連続で五輪に出場、3つの金メダル、4つの銀メダルを手にした体操選手の内村航平は、昭和64年1月3日生まれなのだ。


 この日には、AKB48&NMB48の元メンバー・梅田彩佳も誕生している。大島優子、篠田麻里子、小嶋陽菜などAKB48の初期主要メンバーには昭和生まれが珍しくないが、彼女は“もっとも若い昭和生まれのAKB48メンバー”ということになる。


 一方、平成元年1月に生まれた国内の著名人としては、女優の多部未華子(1月25日)がいる。


●イベントは平成になって2日目から見切り発車的に再開


 自粛ムードは強かったが、カウントダウンライブや天皇杯、ライスボウルが開催されたように、スポーツや音楽のイベントもある程度、通常通り行われていた。大きなところでは、1月3〜4日には、元BOOWY(前年に活動休止)の氷室京介の東京ドーム公演もあった。


 しかし、政府が弔意を示すよう協力を要望したこともあり、昭和最後の日(1月7日)と、平成最初の日(1月8日)だけは、さすがに各種イベントが軒並み中止となっている。花園ラグビー場で予定されていた、全国高等学校ラグビーフットボール大会の決勝戦は行われず、決勝進出の両校が優勝扱いになった。


 日本武道館では1月7~9日に、爆風スランプによる3デイズ公演が予定されていたが、9日のみの開催に。結果的にこれが、平成初の武道館コンサートとなる。


 1月8日が初日となる予定だった大相撲1月場所は、1日だけズラして、9日よりスタートとなった。初日が月曜日になったのは初めてのこと。懸賞、大入り袋の配布、優勝パレードなどは自粛となっている。


 当時の大相撲ではモンゴル出身の横綱はまだ誕生しておらず、千代の富士、北勝海、大乃国の3横綱体制。幕内で優勝したのは北勝海、つまり現相撲協会の八角理事長だ。


 まったくの蛇足だが、何かと話題を集めている貴乃花光司はこの時は16歳で、十両に昇進する前。さらに蛇足だが、元パートナーの河野景子はアナウンサーとしてフジテレビ入社1年目だ。


●今では没交渉の前田日明と高田延彦が戦っていた


当時、プロレス界は多団体時代を迎える前夜で、新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレス、ジャパン女子プロレス、そして第2次UWFの5団体時代。新日本の東京ドーム初進出は平成元年4月のことなので、1月4日の東京ドームでは、前述のように氷室京介のライブが行われていた。そして特筆すべきなのが、UWFの大ブームである。


 前年5月に旗揚げされた同団体は、3カウントフォールなし、ロープワークなし、場外乱闘なしの格闘技スタイルを打ち出し、興行数、試合数を大幅に減らし(月に1興行で全5試合程度)観客の飢餓感を煽ることで人気が爆発。音楽業界のノウハウを取り入れたブランディング、イベントのショーアップなども斬新であり、旧来のプロレスとは差異化を図っていた。


 勢いに乗るUWFは、1月10日に初の武道館進出が予定されていた。大相撲、爆風スランプの前例があっただけに、この興行も予定通り開催され、2階席までビッシリ埋まった。そのメインイベントでは、ブームの象徴ともいえた前田日明と、2番手で女性ファンも多かった高田伸彦(現・延彦)が対決している(前田が勝利)。


 両者はもともと兄弟のような蜜月関係を築いていたが、その後いろいろあって袂を分かち、事実上絶縁状態となった。


 現在、前田は時々バラエティ番組に“デカくて怖い人”として出演。この2月にはセコンドとして、久々にプロレス興行に参戦を果たしている。


 高田はタレント活動もしながら、格闘技興行「RIZIN」のスポークスマン的な立場にいる。昨年の大晦日に、フロイド・メイウェザーvs那須川天心のエキシビションマッチが行われた興行の試合中継で、解説者としてろれつが回っていなかったことから、「酩酊状態だったのでは?」と疑われたが、本人は否定した。なお、その後、RIZINでの肩書きは“統括本部長”から、“ご意見番”に変更になった。
(文=ミゾロギ・ダイスケ)


●ミゾロギ・ダイスケ
ライター・編集者・昭和文化研究家/映画・アイドルなど芸能全般、スポーツ、時事ネタ、事件などを守備範囲とする。今日の事象から、過去の関連した事象を遡り分析することが多い。著書に『未解決事件の昭和史』(双葉社)など。



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