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天才アーティストとしての才能が開花したドリー・パートンの『ジョリーン』

  • 2020年 12月04日 18時00分
  • 提供元:OKmusic

この11月、新型コロナの感染が世界的に拡大していた4月に、ドリー・パートンがアメリカ・ヴァンダービルト大学のメディカルセンターに治療法の研究費として100万ドル(1億円強)を寄付していたことが分かった。日本ではカントリー系音楽の人気があまりないためかドリーの名前はあまり知られていないが、彼女は音楽界だけにとどまらないアメリカショービジネス界の巨人ともいうべき天才的なアーティストである。例えば、93年に故ホイットニー・ヒューストンが歌って450万枚を超えるモンスターヒットとなった「オールウェイズ・ラブ・ユー(原題:I Will Always Love You)」はドリーの作詞作曲であるし、グラミー賞受賞回数は9回、ビルボードのカントリーチャートで1位を獲得した曲は25曲にも及ぶ。また、ピアノやギター以外にも数種類の楽器を操るマルチ・インストゥルメンタリストとしても知られ、他にも女優や実業家としても大成功を収めているアーティストなのである。今回は彼女がソングライターとして頭角を現し始めた、70年代中期の13thアルバム『ジョリーン』(’74)を取り上げる。

極貧の環境からナッシュビルへ

ドリー・パートンは1946年にテネシー州の片田舎で12人兄弟の4番目として極貧の家庭に生まれている。両親の親族は音楽好きで、小さい頃から曲を作ったり楽器を演奏していたりしていたようだ。ドリーの叔父ビル・オーウェンスは彼女の才能を見抜き、10歳の時には叔父と一緒に地元のローカルラジオやテレビ出演で収入を得ていたというのだから相当の早熟である。学校には行けなかったが、文字が書いてあるものは何でも興味を示し、いつの間にか独学で読み書きができるようになっていた。



高校卒業後(家族の中で高校まで出たのは彼女だけである)、翌日にはカントリー音楽のメッカとして知られるナッシュビルに叔父と一緒に行き、ふたりで曲を作るようになる。しばらくするといくつかの曲がチャートに乗るヒットとなり、19歳で新興のモニュメントレコードと契約が決まるものの、レコード会社はポップ歌手としてドリーを売り出している。彼女はカントリーシンガーになりたかったが、実績を作るまでは我慢することを選び、シンガーとして務めながら曲作りを続けた。



彼女の歌う曲は売れなかったが、そのうち彼女が書いた曲(ただし、クレジットはなし)がチャートの6位まで上昇、ここでカントリーシンガーへの転身をレコード会社に願い出る。モニュメントは彼女の転身を受け入れ、デビューアルバムのレコーディングを開始、収録曲12曲のうち彼女単独のオリジナル曲が3曲、叔父のオーウェンスとの共作が7曲収められた。このアルバム『ハロー、アイム・ドリー』(’67)からは自作ではないが「ダム・ブロンド」(24位)と「サムシング・フィッシィ」(17位)の2曲がヒット、アルバムも11位となり上々のスタートを切った。ショッカビリーのメンバーで前衛ジャズギタリストのユージーン・チャドボーンは、このアルバムをドリーの個性がよく出た名作と位置付けている。

ポーター・ワゴナーとのデュエット時代

この後、カントリー界のスター、ポーター・ワゴナーのテレビ番組『ポーター・ワゴナー・ショー』での相手役に抜擢され、ドリーの名前は一躍全米に知られるところとなる。ワゴナーとのデュエットは1974年まで断続的に続き、トム・パクストンのカバー「ラスト・シング・オン・マイ・マインド」を67年に大ヒットさせ(全米7位)、以降6年間トップテン・ヒットを継続して生み出すなど、デュエットとして大きな成果を挙げることになる。



また、ワゴナーの援助でドリーはモニュメントから大手のRCAレコードへ移籍、ソロアルバムを制作し続けるのだが、ワゴナーにしてもドリーにしてもソロではデュエットの時のような大ヒットが生まれず苦しい思いをしている。



ただ、ドリーの書く曲は着実に進化しており、それが開花するのは7thアルバム『ジョシュア』(’71)で、タイトル曲がソロで初のチャート1位を獲得、第14回グラミー賞にもノミネートされるなど、このアルバムから彼女の才能が花開き始めることになる。続く8thアルバム『コート・オブ・メニー・カラーズ』(’71)のタイトルトラック(全米4位)は、母親が端切れをつなぎ合わせてコートに仕立てる貧しかった自身の子供時代のことを歌ったもので、エミルー・ハリスやシャナイア・トゥエインらがカバーしており、彼女の代表曲のひとつとなった。このアルバムは他にもブルーグラス・スタイルの「マイ・ブルー・ティアーズ」やゴスペルに影響された彼女の出自がわかる名バラード「ヒア・アイ・アム」など名曲揃いで、彼女の代表作の一枚である。このアルバムは初めてトップテンに食い込む結果(7位)となり、ドリー・パートンはシンガー(めちゃくちゃ上手い)として、またソングライターとしても万人に認められるアーティストとなった。



73年には、故郷への郷愁をテーマにした全曲ドリーの自作曲ばかりで占められたコンセプトアルバムで11枚目のソロ作となる『マイ・テネシー・マウンテン・ホーム』をリリース、タイトルトラックはマリア・マルダーがカバーするなど、彼女のオリジナルでもっともよく知られた曲のひとつになった。

本作『ジョリーン』について

74年にリリースされた13thアルバムが本作『ジョリーン』である。収録曲は10曲で、2曲の全米1位(「ジョリーン」と「オールウェイズ・ラブ・ユー」)を含む、『コート・オブ・メニー・カラーズ』と並ぶドリーの70年代を代表するアルバムだ。



「ジョリーン」はドリーの数多い自作曲の中で、もっともたくさんのアーティストにカバーされている。日本ではオリビア・ニュートン・ジョンのカバーが有名であるが、80年代にはシスターズ・オブ・マーシー、ストロベリー・スイッチブレイドなどのグループや、21世紀になってからはホワイト・ストライプスやペンタトニックスといったロック系のアーティストによってもカバーされている。



「オールウェイズ・ラブ・ユー」は74年にドリー本人の歌で全米1位を獲得、その後、映画『テキサス1の赤いバラ』(主演も務める)でサントラとして82年に再録音し、この時にも本人のバージョンが1位を獲得している。そして、ホイットニー・ヒューストンが1位を獲得するのは92年で、3回も同じ曲が1位になるというケースは長いポピュラー音楽史のなかでも極めて珍しい。



「アーリー・モーニング・ブリーズ」はアルバム『コート・オブ・メニー・カラーズ』に収録されていたものを再録音しており、彼女は旧作を録音し直すことが少なくない。

本作以降のドリー・パートン

本作以降、70年代のアルバムについては自作曲の割合が増え、大ヒットを飛ばしながら順調にスター街道を突っ走っている。そんな彼女であるが、日本でも大ヒットしたコメディー映画『9時から5時まで』(’80)の出演(ドリー、ジェーン・フォンダ、リリー・トムリンの3人が主演)と主題歌を担当することで大きな転機を迎えることになる。主題歌「9時から5時まで」はカントリーチャートだけでなく、ポップチャート、アダルトコンテンポラリーの3分野で1位となりふたつのグラミー賞を受賞する快挙となった。それだけでなく、ドリーの演技はゴールデングローブ賞などで最優秀女優賞などにノミネートされ、女優としても認められる存在となるのである。音楽においては70年代後半からカントリーからポップスへとクロスオーバーしていき成功を収めている。



その後もリンダ・ロンシュタット、エミルー・ハリスとの『トリオ』(’87)、ブルーグラスにチャレンジした『ザ・グラス・イズ・ブルー』(’99)や『リトル・スパロウ』(’01)などもある。これまでにリリースしたアルバムはスタジオ録音だけで50枚近い。今年の10月にリリースされた最新盤『ホリー・ドリー・クリスマス』はスタジオアルバムとして47枚目で、すでにカントリーチャートでは1位となっている。ドリー・パートンという才能は74歳になった現在もそのパワーは尽きることがないようだ。もし、彼女の音楽を聴いたことがないなら、これを機会にぜひ聴いてみてほしい。きっと新しい発見があると思います。

TEXT:河崎直人

アルバム『Jolene』

1974年発表作品

<収録曲>

1. Jolene

2. When Someone Wants to Leave

3. River of Happiness

4. Early Morning Breeze

5. Highlight of My Life

6. I Will Always Love You

7. Randy

8. Living On Memories of You

9. Lonely Comin' Down

10. It Must Be You

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